大阪府交野市は三都(大阪、奈良、京都)のほぼ中央に位置していることから、古来より人の往来が盛んな地域でした。そのためか大阪府下の他市に比べて数多くの石造文化財が分布しています。また、交野市内の石造遺物の多くは京都文化圏に属するものと考えられており、この地域独自の作品を多く目にすることができます。
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ひな壇のように小石仏を並べた義晴地蔵寺の地蔵堂(昭和五十四年建立)
ひな壇のように小石仏を並べた義晴地蔵寺の地蔵堂(昭和五十四年建立)
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宝瓶三茎蓮文様を探し出せ!
義晴地蔵寺(ひな壇にズラリと石仏が並ぶ) |
義晴地蔵寺は妙見山南墓地(鎌倉墓)とも呼ばれており、木造瓦葺の立派な地蔵堂は昭和五十八年に建てられました。周囲に散在していた石仏類を集めて祀られていて、お堂が建つ以前は果樹園として開墾された場所から多数の石造遺物が出土したと云います。
阿弥陀如来立像(造立、室町期と推測) |
ここでは多くの興味深い石造遺物を見ることができるのですが、今回は「宝瓶三茎蓮文様」に焦点を当てて紹介したいと思います。尚、石塔群の紹介順序は「交野市の石造文化財Ⅱ(交野市教育委員会発行)」に従っています。
宝瓶三茎蓮文様の石塔群①(下から三段目、左端) |
宝瓶三茎蓮文様とは、前述の資料によると「方形に加工された石材の内側に「宝瓶三茎蓮」を薄肉彫りしたもの」と説明されています。上の写真に見るように、石がんなどの内壁や奥壁などに使用されていました。上記のような石塔群は交野市内に十八基が確認されています。そのうちの七基がここ妙見山南墓地から出土しました。しかし、肉眼では文様を確認するのはムツカシイですね。
宝瓶三茎蓮文様の石塔群②(下から七段目、左端) |
向かって右斜めに欠損した特徴ある形ですぐに見つかりました。実は、この方形石にも赤い涎かけがかけてあって探し出すのが一苦労です。宝瓶部分のかすかな膨らみが写真でもお判りでしょうか。(ほぼすべての石造物が涎かけを纏っています)
宝瓶三茎蓮文様の石塔群③(最上段、右端) |
今回紹介する中で、宝瓶三茎蓮文様が最もよく分かる方形石です。ひな壇の最上段にあり近づくのがとても困難でした。残念なことに下部の様子が前の石仏に隠れてよく見えません。
宝瓶三茎蓮文様の石塔群④(下から八段目、右から五番目) |
素人目にはただのでこぼこした長方形の石にしか見えませんが、口径5.0cmの宝瓶に三本の茎を挿し、中央のまっすぐ伸びた茎の先端に蕾、そして左右の茎が外側に広がっている様子が徐々に浮彫になってきませんか? そのために、やや斜めから撮影しています。
宝瓶三茎蓮文様の石塔群⑤(下から四段目、左から八番目) |
大きくてきれいな長方形をした石板なのでよく目立ちます。また、四段目ぐらいは目線の高さであることも影響していると思います。これも写真ではよくわかりませんが、実際に見るとわりとハッキリ文様を目視できます。左右にパラッと蕾がお辞儀をしている典型的な宝瓶三茎蓮文様です。石板のやや左側に彫られていて、右側面は粗削りなことから石がんの左側壁として使用されていたと考えられています。
宝瓶三茎蓮文様の石塔群⑥(下から二段目、左から五番目) |
この方形石には右寄りに宝瓶三茎蓮が彫られていて、左側面は荒く整形されていることから、石がんの右側壁として使用されていたのでしょう。宝瓶から真っすぐに伸びる中央の茎が見て取れます。石塔群⑤と異なるのは三本の茎がほぼ真上に伸びていること。従ってこれらを一対と見るのは議論の余地があるでしょう。
石塔群⑥に黒い補助線を入れて見た。 |
フツーに見るとほとんど平板にしか見えませんので、補助線でお分かりいただけるでしょうか。
宝瓶三茎蓮文様の石塔群⑦(下から七段目、右から六番目) |
最後にご紹介する宝瓶三茎蓮文様の石塔群は、とても謎めいていて神秘的でした。向かって左側が欠損したやや小ぶりの方形石の中央からほんの少し左寄りに宝瓶のみが彫られていました。損傷が激しいのでよく分かりませんが、右側面よりも左側面の方が平滑に整形されています。恐らく石がんの左側壁部材だと思いますが、何も挿されていない宝瓶に何かのメッセージが隠されているのでしょうか。
参考文献
交野市の石造文化財2-群津・森・寺・傍示・星田地区編-
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