興融寺は生駒市青山台の北に位置し、暗越街道(国道308号線)からも離れているため、石仏ファンでもない限り訪れる人は少ないでしょう。しかも、ちょっと分かり難い場所にお寺が立っていました。
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ストリートビューも近づけない場所
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江戸期の暗越街道の通り道
今では人を遠ざける場所にあるお寺ですが、江戸期の暗越街道は水害を避けるために竹林寺から興融寺、円福寺を経由して藤尾町の石仏寺あたりへ合流していたと云います。その頃は人気のスポットだったに違いありません。
境内に並ぶ石造遺物 |
本堂の雨戸は固く閉ざされていて、無人(無住)感が漂っていますが、前庭の見学は自由にできました。石造遺物の傍らには生駒市教育委員会の説明板も立っていることから、まんざら人が訪れないでもありませんね。
五輪塔(文永十年1273)、鎌倉時代中期 |
先ほどの石造群とは別格扱いで片隅に囲いを作って祀られていました。火輪部が欠損しているものの歴史の重みを感じさせる五輪塔です。資料によると壱分町・無量寺(2015年訪問)にある五輪塔(嘉元)よりも三十年も古く、奈良県下では紀年の上限を示すという。
十三仏板碑(天文十八年1549) |
半肉薄彫り、天蓋、三列四段、いずれも優れた遺品の代名詞のような板碑です。この板碑が造立された年に宣教師フランスシコ・ザビエルが鹿児島に上陸、歴史が大きく動き始めた瞬間でした。
山型名号板碑(享禄四年1531)最後列、向かって右から二番目 |
これは惜しい。一か所にまとめていただくのは大変ありがたいのですが、もう少し前後の間隔は取ってほしいですね。資料によると、紀年はもう少し古い時代のモノかもしれないことを指摘されています。碑文も解読されていて、それによると三夜念仏衆三十八人が造立したとのこと。研究により当時の世相や習慣が垣間見れるかもしれません。
参考文献
生駒市 石造文化財「生駒谷」(昭和五十二年)
生駒の古道-生駒市古道調査-(生駒民俗会、平成二十六年)
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